天草島原長崎の旅(2026/5/16〜5/28):『島原編』
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まだ見ぬ日本の地を巡り、歴史資料館を巡る旅。天草・島原・長崎の3編に分けてお届けします。
フェリー: 鬼池港(おにいけこう) → 口之津港(くちのつこう)
口之津(くちのつ): 明治期、石炭積出港として大いに賑わった町へ
徒歩15分のところに分館がある そちらにも行ってみる 歴史を感じる建物
(画像は島原市HPより)
個人的には分館の方をオススメしたい 館長さんに大変お世話になった
(画像は南島原ひまわり観光協会HPより)
ちょっと地理人情
南蛮船と石炭船が、なぜ口之津に?
1567 年、口之津にポルトガル船が入港した。長崎港より 4 年早いそうだ。南蛮貿易の港として賑わったが、1637 年の島原・天草一揆をきっかけに鎖国の体制が固まって、港は表舞台から退いていく。再び脚光を浴びたのは明治時代。1878 年に石炭の積出港に指定されると港は大きく賑わった。しかし 1908 年に熊本県の三池港が開港すると、口之津に入港する船は激減した。観光船も減っていき、南蛮船や石炭船の賑わっていたはずの海は、今では穏やかで風光明媚な景色に変わっている。
[世界遺産] 原城跡: 島原の乱で3万人が斃れた地へ
ちょっと地理人情
キリシタンの悲劇は阿蘇がつくった?
原城がある場所は有明海に突き出る尾根だが、これは 150 キロも離れた阿蘇山の噴火がもたらしたという。1604 年、有馬家がこの地形を生かして城を築く。1637 年に島原・天草一揆が起こると、16 歳の天草四郎を中心に、女性や子どもを含む約 3 万 7 千人(諸説あり)がこの尾根に建つ城に籠もった。幕府は 12 万人以上を動員し、翌 1638 年 4 月の総攻撃で 1 名を除く全員が命を落とした。海に囲まれた守りやすい地形は、逃げ場がないということでもある。圧倒的な人数に囲まれ、なすすべもなかった。生き残った 1 名は幕府の諜報者になった者だそうだ。
島原市内: 島原城・四明荘(しめいそう)
ちょっと地理人情
山が崩れて、水の町が生まれた?
島原の町には至る所に湧水がある。山に降った雨は火山の大地にしみ込み、濾過されて湧き出してくるのである。1792 年、地震によって眉山(標高 819 メートル)の大部分が崩れ、海へとなだれ込んだ。海岸線は沖へ広がり、もとは海底にあった泉が新しくできた陸地から湧き出すようになったとされる。災害とも言える事態が、「名水百選」に選ばれた島原の湧水という恵みを生み出した。1990 年には普賢岳が噴火して火砕流が町を襲った。島原は、恵みと災いの両方を山から受け取ってきた町なのである。
ちょっと立ち寄り・参考リンク
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神代(こうじろ): 雲仙市歴史資料館・神代鍋島邸
ちょっと地理人情
長崎県の島原半島にあった佐賀県の佐賀藩の町?
神代(こうじろ)は島原半島の一角にありながら、佐賀藩の領地だった。1608 年、鍋島信房が初代の領主となったのがこの町の歴史の始まりである。今も武家屋敷や石塀、生垣などが旧佐賀藩時代の面影を残し、2005 年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。鍋島邸は江戸後期の隠居棟から昭和初期の主屋まで、時代の異なる 5 棟が国の重要文化財となっている。この町を歩いていると、園児たちが引率者のお散歩カートに乗って道を練り歩いていた。歴史的な空気が保存されたこの静かな町で、次の世代がすくすくと育っている。
諫早(いさはや)市: 市内散策
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流されなかった石橋が移動?
諫早の眼鏡橋は、1839 年に本明川(ほんみょうがわ)に架けられた。架橋に携わった人々が目指したのは、水害でも流されない頑丈な橋。1957 年の諫早大水害では、539 人が亡くなる大きな被害が出たが、眼鏡橋は欄干の一部が壊れただけで残った。ところが、この橋がせき止めた流木やがれきが水の流れを変え、被害を広げたとも指摘されている。川幅を広げる工事にあわせて町のシンボルとして残すこととなり、1960 年までに今の諫早公園へ移された。人間の技術の凄さと、多くの人がその橋を行き交った足音が、その石橋には刻まれている。1958年、石橋として日本で初めて国の重要文化財に指定された。
雲仙: 雲仙地獄・雲仙大仏・温泉神社・雲仙の共同浴場
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「温泉」と書いて、「うんぜん」?
雲仙の歴史は、701 年、僧の行基が温泉山満明寺を開いたことに始まるとされる。地名の「うんぜん」は、この寺の山号「温泉山」に由来する。かつてはこの地を「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいたが、1934 年に国立公園に指定されたのを機に、「雲仙」の表記が使われるようになった。意外と最近のことなのである。江戸時代には満明寺が女人禁制の霊場を管理していたという。地面のあちこちから噴き出す蒸気と熱気は、今も人を寄せつけない迫力がある。この景色を見れば、ここが霊場とされたのもうなずける。しかしこればかりは実際にその場に行ってみないと肌で感じることはできない。
小浜(おばま): 小浜温泉・小浜歴史資料館
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同じ島原に山の湯と海の湯?
同じ雲仙の火山がもたらす湯でも、山の上の雲仙と、海辺の小浜とでは表情がまるで違う。小浜は東に雲仙岳、西に橘湾を望む温泉町で、源泉の温度は最高 105 ℃に達する。この湯の効能を世に広めたのは、明(みん)から渡ってきて日本に帰化した漢方医・陳明徳(入徳)だったと伝わる。のちに本多湯太夫が温泉の発展の礎を築いた。その屋敷跡が今の小浜歴史資料館になっている。西が海に開けた町は夕日が美しい。厳しい霊山だった雲仙とは違い、開放的な海の湯の小浜。そんな小浜の温泉に入れなかったとは、またいつかここを訪れなければいけない理由ができた。





























































