2026年5月15日金曜日

写真|天草島原長崎の旅①|天草(熊本)

天草島原長崎の旅(2026/5/16〜5/28):『天草編』

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まだ見ぬ日本の地を巡り、歴史資料館を巡る旅。天草・島原・長崎の3編に分けてお届けします。

ちょっと地理人情

東京から九州まで船旅できるの?

答えは Yes。東京からも出ているが、今回は横須賀と北九州の新門司を結ぶ航路で向かった(2026年5月現在)。航路の距離は 976 キロ、所要時間は約 21 時間。首都圏と九州を結ぶフェリー航路は他にもあったようだが、原油高や運航の不安定さ、港の立地などを理由に次々と姿を消していったようだ。フェリーの乗客の主役はトラックなどの物流だと見ている。大型車が次々とフェリーの中に入っていくのを見た。予想は当たっていて、車両輸送の目的別の割合は約 6 割が物流だそうだ(人は乗らずにコンテナのみ輸送する割合も多いらしい)。もちろん自分を含めて車両なしの人も多かった。波はあるが、寛ぎながら行く船旅も良いものである。

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ちょっと地理人情

なぜ三角(みすみ)に明治の港が?

三角西港は 1887 年に開港した。オランダ人技師ムルドルが設計し、天草の石工たちが約 756 メートルの石積みの埠頭を築いた。明治三大築港の一つに数えられ、2015 年には「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録されている。西港が港としての役割を終えたのは 1899 年で、鉄道が三角東港まで開通したためだ。港の栄枯盛衰を決めたのは鉄道という陸の道だった。歴史は転がり続ける。鉄道もこのままでは転がってしまう運命になるかもしれない。例えば、自動運転とかドローンとか、新たな移動手段によって。

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島から島へ渡るには、フェリーではなく、バス?

天草諸島は文字どおり島々の集まりだが、今は九州本土からバスで渡ることができる。1966 年 9 月に開通した天草五橋のおかげだ。宇土半島の先端・三角から、第一号橋の天門橋が大矢野島へと架かり、そこから島々を橋で伝って上天草へと続く。島に鉄道はないので、天草のローカル線はバスが担っている。車窓に次々と現れるのどかな島々の景色は、橋でつながった島めぐりならではのものだ。心配なのはバスの運行時間だけ。それぞれの島で泊まりを重ねてみるのも良いかもしれない。贅沢な天草時間の過ごし方になるだろう。

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なぜ崎津で信仰は守られた?

崎津は、漁村の暮らしの中で独特の信仰の形が育まれた集落である。キリスト教が禁じられた時代、人々は表向きには仏教や神道を受け入れながら、ひそかに信仰を守り続けた。貝殻の内側の模様をマリアの姿に見立てた話は、信心の深さを物語っている。今も﨑津諏訪神社の鳥居の向こうに、教会の尖塔が見える。仏教と神道とキリスト教が、この小さな港町で共に時間を分かち合ってきた。2018 年 7 月、崎津集落は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして世界遺産に登録された。遠く離れた入り江の漁村だったからこそ、信仰は隠し通すことができた。この地域には玄関や軒先に年中しめ縄(しめ飾り)を飾る風習がある。「自分たちは神道(または仏教)である」という意思表示を示すものらしい。それともキリシタンのカモフラージュだったのか。この静かな港町を歩いていると、何かの微かな息づかいが聞こえてくるかのようである。

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ちょっと地理人情

なぜこの地形上で争いがあったのか

富岡半島は、もとは沖に浮かぶ島だった。海の流れが運んできた砂や礫(れき)が少しずつ積もって砂州となり、やがて島と陸を結んだ。地理の言葉でいえば陸繋島(りくけいとう)、陸と島をつなぐ砂州はトンボロと呼ばれる。富岡城は、その島の側の小高い山の上に築かれた。島原・天草一揆では一揆軍が激しく攻めたが、ついに唐津藩のこの城を落とせなかった。陸繋島だろうがトンボロだろうが、彼らにはどうでもいいことだ。当時の彼らは生きるか死ぬかであった。現代の我々に残されたのは、この地形とともに壮絶な史実である。何をそこから学び、次へと繋げていけばいいのか。考えないよりは考えた方がいいのだろう。

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