2025年9月27日土曜日

写真|備中備北ももたろうの旅|岡山・広島

備中備北ももたろうの旅(2025/9/27〜10/7)

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姫路から鞆の浦、そして天空の城・備中松山城まで。ローカル線とバスを乗り継ぎ、桃太郎伝説の国を巡る旅。

ちょっと地理人情

津山城と川の関係は切っても切り離せない?

津山城は、津山盆地の中央にある小高い丘の鶴山(つるやま)に建つ平山城である。1603 年に津山藩を開いた森忠政(ただまさ)が 12 年をかけて 1616 年に完成させた。忠政がこの丘を選んだのは、吉井川と宮川の合流点を見下ろす場所だったからだと思われる。東側は断崖で、そのうえ宮川が天然の堀になる。川は守りの要だったのである。そして吉井川は守りだけでなく町の暮らしも支えた。忠政は城下に舟着場を整え、津山から海に近い西大寺までを高瀬舟で行き交えるようにした。年貢米や特産物を積んで川を下り、帰りは生活用品を積んだ舟を人が曳いて上ったという。最も多い時には約 160 隻の高瀬舟と約 480 人の船頭がいたとされる。1873 年に廃城となって建物はすべて取り壊されたが、高さ 10 メートル前後の石垣は今も残り、二つの川が出会う町を見下ろしている。

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ちょっと地理人情

内陸部の三次になぜ霧の海?

三次(みよし)は、標高 500 メートル前後の山々に囲まれた盆地の町である。町の真ん中では、江の川(ごうのかわ)、西城川(さいじょうがわ)、馬洗川(ばせんがわ)の 3 本の川が巴(ともえ)の形に合流する。江の川は中国地方最大の川で、中国山地を横切って日本海へと注ぐ。三次はこの川のおかげで舟運や石見銀山街道を擁することができ、江戸時代には山陰と山陽を結ぶ交通の要衝として栄えた。そして秋から春先にかけての晴れた日である。寒暖差の大きい夜中から朝方にかけて、川面から湧き上がった水蒸気が霧となって盆地を満たす。山頂だけが島のように浮かぶ「霧の海」である。豊かな水と盆地の地形が霧の海を生み出すのである。そんな海のような川が、この町に人と物を大いに集めた。

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鞆の浦が有名・無名を分けた海流の要因は?

鞆の浦(とものうら)の沖は瀬戸内海のほぼ中央にあたり、東西から流れる潮の分かれ目になっている。潮の流れに乗って進む帆船の時代、船はここで潮の向きが変わるのを待った。周りを仙酔島(せんすいじま)などの島々に囲まれ、風や波を避けやすいことも港には好都合だった。こうして鞆の浦は「潮待ちの港」として栄えた。その名は早くも万葉集に見え、730 年には大宰府での勤めを終えて都へ戻る大伴旅人(おおとものたびと)がここを通って歌を残している。千年以上も前からここで多くの人が潮を待ち、海を眺めていた。想いを巡らせるには、小雨に煙る港町がふさわしいのかもしれない。

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天空の城は何が「ただ一つ」なのか

備中松山城は、標高 430 メートルの小松山に建つ。臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれる 4 つの峰からなる山の一つだ。その始まりは 1240 年、秋庭重信(あきばしげのぶ)が隣の大松山に砦を築いたこととされる。戦国時代には臥牛山一帯に 21 もの砦があったという。今の天守は、1683 年に水谷勝宗(みずのやかつむね)が大修築を行って完成したと伝わる。江戸時代から残る天守は全国に 12 しかないが、その中で山城は備中松山城ただ一つである。9 月下旬から 4 月上旬、晴れて風がなく、朝と日中の気温差が大きい日の夜明け前から朝 8 時頃にかけて、城の周りに雲海が広がることがある。筆者は朝の乗合タクシーで展望台まで行った。完全な雲海ではなかったが、想像を巡らせるくらいの雲海の一端を見ることができたのは幸運だった。

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