2025年11月30日日曜日

エッセイ|佐渡の掘り跡|新潟

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テーマ:『歳月』

年2回ほどローカル線で日本を旅している。2013年、日本海に浮かぶ佐渡ヶ島へ渡った。東京からは当然ローカル線で向かうが、新潟から先は海である。佐渡汽船を使って両津港に入った。なぜこの島を訪れようと思ったか。この頃、ぼんやり「金」というものに興味があった。佐渡ヶ島には佐渡金山がある。そのことからつい思い立った。

※以降の写真は、特別な注釈がないものは筆者自身が撮影したものです。

両津港に入る佐渡汽船

ここまであえて「佐渡ヶ島」と書いた。しかしこの表記はどうも単純ではない。2024年に「佐渡島の金山」が世界遺産登録された。「さどのきんざん」と読む。調べてみると、佐渡島と書いて「さど」「さどしま」「さどがしま」と三様の読み方があるという。漢字では「佐渡島」あるいは単に「佐渡」の表記が正式に使われているようだ。こうした曖昧さは日本らしいと言えば日本らしい。字数も減らせるため、以降は「佐渡」とする。

佐渡の面積は琵琶湖を一回り大きくしたほど。元々はサツマイモが並んだような二つの島が海に浮かんでいた。それが地殻変動でサツマイモの胴体の一部が陸続きになり、現在の島の形になった。古事記や日本書紀にその地名が登場するが、それほど佐渡は古くから存在が知られている。奈良時代以降、流刑地として多くの貴族や知識人が流された。例えば世阿弥や日蓮聖人などである。そういえば「佐渡ヶ島」の表記がまず想起されたのは、もしかしたら流刑地の印象と無関係ではないかもしれない。

佐渡島の全景(地図または風景)
国土地理院のマップより

やがて江戸時代に入ると、金銀の産出地として幕府の天領となる。このことが佐渡の存在を一層高める要因になったのは間違いない。奉行所が設けられ、多くの採掘者も集まる。人が増えればさらに人は増える。この頃から日本海航路の寄港地としても佐渡は栄えていった。カネのなる木に人は集まると言うが、カネのなる”島”は佐渡が群を抜いているのではないか。驚くことに金銀の採掘はごく最近まで続き、1989年(平成元年)の操業停止まで400年近くも続けられてきたのである。

佐渡ではまず、路線バスに揺られて東から西へと島の中央を進んだ。両津港は島の東側にあり、金山がある佐渡市相川(あいかわ)は西側にある。バスで1時間ほどかかるが、それほどに佐渡は島として大きい。相川では町がきれいに整備されつつあった。10年も前から既に、世界遺産登録の機運が高まっていたのである。その相川から金山までは1~2kmほど山の方に向かわなければならない。レンタサイクルで電動アシスト付き自転車を選んだのは正解だった。金山までの道のりはダラダラと上り坂が続く。普通の自転車ならすぐに両足が悲鳴を上げたことだろう。

相川の町並み

佐渡島の金山はいくつもの坑道が張り巡らされている。現在、実際に入って歩くことができるのは2箇所。江戸時代に手掘りで掘られた「宗太夫坑」(そうだゆうこう)と、明治時代に掘られた「道遊坑」(どうゆうこう)。宗太夫坑は手掘りのため粗粗しい壁面の坑道になっている。進んでいくと所々で採掘中の人に遭遇する。もちろん人形なのだが、動いたり声を出したりするので当時の雰囲気が感じられる。鉱脈を探して採掘する職人は高賃金で待遇が良かった。そのため全国から我こそはと佐渡に渡ったようだ。

宗太夫坑の坑道内部

しかし当時の坑道の中は過酷な労働環境であった。酸素が薄く、粉塵が舞い、呼吸器の病などで短命の者も多かった。採掘者はまだ良い方で、佐渡に送り込まれた無宿人や身分の低い者は無惨であった。坑道では掘り進むごとに地下水が湧く。それを休みなく汲み出し続けなければならない。彼らはこの最も過酷な排水作業に割り当てられた。ワークライフバランスの概念など微塵も持つことは許されなかった。

一方、明治時代の道遊坑に入ってみると文明の進み具合が見て取れる。機械による採掘が行われたため、坑道の壁面はきれいに整っている。敷かれたレールはトロッコを走らせるためのものだ。江戸から明治へ、まるで一気に時代を駆け抜けたような感覚になる。道遊坑を抜けて外に出ると佐渡島の金山を象徴する「道遊の割戸」(どうゆうのわりと)が待っていた。

道遊坑内のトロッコ用レール

道遊の割戸は標高250mほどの小山である。東京・池袋のサンシャイン60よりわずかに高い。特徴は頂上近くから深く切り込みが入った姿だ。まるで金太郎が巨大な斧で山に一撃を加えたようにえぐれている。これは江戸時代からの露頭(ろとう)掘りの跡で、地下の坑道とは対照的に地表から掘り進められたものである。当然、手作業であった。切り込みは74mあるという。サンシャイン60でいえば屋上から18階分、金脈を目当てに人力で掘り進めたことになる。

道遊の割戸

露頭掘りは1900年(明治33年)まで続いた。1600年頃から約300年、人間は長い歳月をかけて深く深く金脈を探し続けた。その結果、山のかたちをも変えてしまったのである。

一体その力は何だったのだろうか。富に対する欲望なのか、生きることへの執念なのか。木々が繁るその小山と空のコントラストは美しかった。それだけに、深い切り込みから覗く空が奇妙なほどに異彩を放っていた。人間の凄味というものを強烈に印象づける風景であった。

夕方、西から東へと再び両津港へ舞い戻る。出航まで時間があるので日帰り温泉で汗を流した。佐渡は意外にも温泉が多い。かつての火山活動が関係しているのだろう。「朱鷺(とき)伝説と露天風呂の宿 きらく」は港から近く有難い。早めの夕食は庶民的な寿司屋で済ませたが、なんといってもここは佐渡である。もう少し長く滞在できれば海の幸をより堪能できたに違いない。日本海に囲まれた海辺の町では、今日もそこかしこで板前さんが腕まくりしていることだろう。新潟に渡る船の甲板上では日本国旗がはためいていた。それに重なるように夕日が海に伸びて輝いている。佐渡の締めくくりとしては上々であった。

両津のすし屋

後記として最後に余談を一つ。翌2014年の伊豆半島の旅では、偶然にも土肥(とい)金山に遭遇した。土肥金山は佐渡に次ぐ第二位の生産量を誇っていた。しかし訪れるまではその存在を全く知らなかった。偶然立ち寄れたとはいえ妙に話しが出来すぎている。よほど金への想念が強かったのだろうか。ただ上位二つの金山を訪れたわりには、執筆時点でまだ金の恩恵を受けるまでには至っていない。

両津港から見る夕日

本エッセイは、『市民による市民のためのちいさなDIYマガジン「Link -リンク-」vol.22 冬号』にも掲載されました。(発行:おおたFab、東京都大田区西蒲田4-7-7 6F/発行日 2025.12.01/https://ot-fb.com/shop)

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