テーマ:『再生』
年2回ほどローカル線で日本を旅している。2006年は旅を始めてまだ数年の頃、思い切って東京から遠く離れた長崎を目標に定めた。前年に坂本龍馬生誕の地である高知を訪れ、ゆかりの地として長崎に興味を持ったのである。下関で一泊し、博多を経由して長崎に入った。下関から長崎までは約6時間。その間、のどかな風景が続く。そのためか、長崎駅を降りると街としての大きさに圧倒されてしまった。長崎は歴史ある港町である。日本初のキリシタン大名である大村純忠(すみただ)が1571年に開港した。鉄砲伝来から30年後、織田信長が比叡山の焼き討ちをした頃である。
※以降の写真は、特別な注釈がないものは筆者自身が撮影したものです。
長崎に着いたら訪れてみたい場所があった。五島(ごとう)列島である。長崎の西の海上に並ぶ島々で、距離にして約100km、東京と熱海ほど離れている。馬鹿げた話だが、ただ「行ってみたい」という興味だけであった。五島を巡るには船での移動が不可欠である。しかし一日に何便もあるわけではない。一泊または二泊で戻って来られるかどうか。
まずは長崎港から五島の中で最も大きな福江島(ふくえじま)へ渡った。福江港のある五島市は福江城跡や武家屋敷なども残り、歴史的に重要な拠点の一つだったことが伺える。ゆっくり周ってみたかったが、航路や便数から逆算するとすぐ次の便に乗る必要があった。福江にはわずか1時間ほどの滞在となり、船はまた陸から離れた。この日は気持ちの良い天気で、心地よい風が甲板上をなでた。美しい島々の横を船は速度を上げて進む。
ふと、小学生の男の子が話しかけてきた。五島の小学生らは観光客によく挨拶をするが、挨拶を通り越し、矢継ぎ早に語り始めた。経由港の奈留島(なるしま)で降りること、高速船とフェリーとの違いなど、特に船に関することに熱が帯びた。「詳しいねえ」と褒めると「好きやもん!」と目を輝かせていた。子は宝とよく言うが、言葉と現実がピッタリ重なる体験をするとは思わなかった。海と空と島々しかない船の上で、日本はこうやって造られているのだと思った。
無念だが五島のうち2つ目と3つ目は素通りし、4つ目の島である若松島で下船した。5つ目の中通島(なかどおりじま)には橋で渡ることができた。これで「行ってみる」という希望は叶った。あまりにも馬鹿げた行程だったが、かえって強く心に刻まれる旅となった。奈良尾という町で一泊した翌日、にわかに天候が悪化した。時化によって長崎行きの船はすべて欠航となった。船が出なければ身動きは取れない。どうしたものか思案に暮れていると、佐世保行きは出航できることを知った。まさに渡りに船。時化の波で大きく揺れる船に身を委ねた。数時間後、無事に本土へと辿り着いた。佐世保は小雨が降っていた。
佐世保といえば佐世保バーガー。せっかくなので有名店の「BigMan」と「ロン」をハシゴした。注文後に作るのが佐世保流。食べ応えがあり、卵とベーコンが味わい深い。まさか悪天候によって佐世保へと流れ着くとは思わなかったが、これも旅の醍醐味の一つである。
「どこか探しているのですか?」佐世保から長崎まで列車で戻る途中、隣りの席の女性が尋ねてきた。ずっと地図ばかり見ていた旅人を気にかけたのだった。旅人は温泉を探していただけだった。それを伝えると、伊王島(いおうじま)を教えてくれた。長崎温泉「やすらぎ伊王島」は、長崎港から高速船で20分ほどの小さな島。夕暮れ時にはライトアップされてエキゾチックな雰囲気を醸し出していた。露天風呂で長崎市の夜景を海越しに眺めながら、あの親切な女性に感謝した。(※長崎温泉は2026年現在、リゾートホテル「アイランド長崎」として営業中)
長崎市内をようやく巡り歩いたのは、長崎に来てから3日後のことだった。この日は朝からどんよりした曇り空が広がっていた。長崎駅前の路面電車に乗り、平和公園停留所(当時は松山町停留所)で降りた。野球・テニス・陸上などの競技場が並び、若きエネルギーに満ちた声が響いていた。一方、路面電車の軌道を境にして反対側には原爆資料館や平和公園、爆心地公園などの区域が静かに広がっている。長崎は原子力爆弾が落とされた被爆地である。日本人であるからには人生で一度は訪れたいと思っていた。
原爆資料館には当時の資料が多くあったが、最も印象に残っているのは偶然聞こえてきた会話の内容だった。まだ幼い孫に向かって祖母が資料を見ながら語りかける。「小さなケンカからこんな殺し合いになっちゃうんだよ。だからケンカしちゃだめだよ」ああ、その通りだ。なぜ人間はケンカなどするのだろう。ケンカはやむを得ないにせよ、小さなケンカでお終いにする知能をこそ、人間は身につけるべきではないか。
外は、まだ曇り空が続いていた。爆心地公園の空を見上げる。原子力爆弾は上空500m付近で炸裂したという。その時、この場所にいたら、この体のすべてが一瞬で溶け、消えてしまっただろう。しかし今、この体は現実の中に残っている。残された者が、何らかの課題と役目を背負って生きてゆくのだ。
平和公園から少し離れて山王神社を訪れた。そこには一本足の鳥居がある。爆風で片側が吹き飛んだ。鳥居は日本人にとってあまりに馴染み深い。その無惨な姿を見ると、まるで自分自身の片側がえぐり取られたかのような錯覚を覚えた。山王神社には被爆した2本のクスノキもある。爆風や熱線で枯れ木同然になったが、戦後次第に樹勢を盛り返していったという。現在でも青々とした樹冠を誇り、生命力あふれる姿で町を見守っている。
一本足の鳥居、新しい枝葉を生やし続けるクスノキ、そして長崎という町。これらに触れた者としては、こう思わざるを得ない。「何度でも、再生できる」と。
このような原爆に関する遺構は、長崎の至る所に残されている。なぜ人は負の遺産を残すのだろうか。同じ過ちを繰り返さないためか。歴史的な資料にするためか。「何度でも、再生できる」と心を奮い立たせるためか。
本エッセイは、『市民による市民のためのちいさなDIYマガジン「Link -リンク-」vol.23 春号』にも掲載されました。(発行:おおたFab、東京都大田区西蒲田4-7-7 6F/発行日 2026.04.01/https://ot-fb.com/shop)
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